THE HUSBAND ('81)

すごいレコードの出会ったのでYoutubeにアップしてみました。めぼしいコレクターや業界の人に聞いてみても知る人は居らず。インターネット上にも一切情報はなし。内容がいいのに情報が一切ないっていうレコードっていうのはもはや殆どないと思います。

「もしかしてこのレコードは幻なのか。でも手元にこうしてあるのは事実だ。」という感覚に陥っています。(今はもう手元にはなく、然るべきところにあります。)

今後このレコードがどのような評価を受けていくのか見守りたいと思っています。THE HUSBANDという80年代初頭の東京のバンド。

  

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People say "There is no unknown record in Japan".
However, obscure unknown record is discovered once several years...

 

This LP is ultra rare? & obscure Japanese Ambient/New wave/New age gem.
Maybe, Nobody got this record without this band members and me or few friends.

How do you feel this sounds? I thinks this is really awesome.

If you have some information about this LP & The Husband,
let me know plz.

 

Track list is below.
English title is my translation...

A1: 開眼前夜 (0:00) The eve opening my eyes
A2: 極楽寺の春 (4:05) Spring in temple of utopia
A3: 七色の夏休み (09:46) Rainbow summer vacation
A4: あい・ざんぶり(12:23) I ZAMBURI = means "take a bath"???
A5: 虹と鈴 (18:34) Rainbow and bell
B1: 峠の茶屋 (24:00) Cafe on pass
B2: 大菩薩峠のもみじ道 (30:28) The Japanese maple road across the pass of bodhisattva
B3: モンマルトルの足跡〜黒猫のピアニスト (35:10) Montmartre - black cat pianist
B1: Hi-Hi (40:33)
B5: 工場少年 (45:08) Factory boy


THE HUSBAND

Tsutomu Sezai
Synthesizer, Rythm Pulse, Tape, Guitar

Kouichi Tanaka
Synthesizer, Rythm Composer, Guitar, Bass

Shiro Sato
Piano, Organ, Electronics

Special Thanks to
Satoshi, Drums
Sugie, Sax

Recorded & Mixed at Home Studio KAMATA, KOMAZAWA, KAMISHAKUJII
Produced by THE HUSBAND

'81 August


Rip from original 1981 LP released by themselves (AOLS-81)
with interview of The Husband insert. (Interview has almost not content or information...)

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nice condition

 

 

相澤徹カルテット『TACHIBANA』: 若き才能とジャズに狂った富豪の話

和ジャズのコレクターには説明不要のアレです"タチバナ"。先日こんな話があったんです。

某N「オリンピックのスピード・スケートの小平奈緒っているじゃん?わかる?」
「うーん、、テレビないんでわかるような、わからんような」
某N「アレで話題になった相澤病院ってあるのよ。一時SNSでもすごい拡散されたよ。その相澤病院っていう長野の病院がこの小平奈緒をずっとサポートし続けたって話。」
「あ、その話ならわかります!それが小平奈緒なんですね。」
某N「そうそう。その相澤病院ってあの"タチバナ"の相澤徹の親族の病院らしくって彼もそこで働いているらしいよ。」
「えーなんかすごい!なんか俄然欲しくなってきたな。。タチバナ。。そういやこないだ二人でレコード見てたとき見つけましたよね。ちょっとボロかったし高かったからスルーしたけど。。」

なんてやりとりがあった。なんということはない会話なんですけど、たしかに今調べてみたら本当に相澤徹さんは今長野の病院で糖尿病の権威として働いているみたい。

糖尿病センター | 各科・診療部門トップ | 社会医療法人財団 慈泉会 相澤病院

でまあそんなことはどうでもよくて、私もこのレコードについては「本当に内容のよい和ジャズ超レア盤」程度にしか知らなかったんですが、今ヨーロッパでは空前の和ジャズブーム。ドイツのBBEから和ジャズのコンピがでて、UKのJazzmanも出しました。で、そのBBEのコンピにこの"タチバナ"の1曲が入っているんですよ。

それに際してUKのVinyl Factoryに相澤徹カルテット及び"タチバナ"に関することが丁寧なインタビューでめちゃくちゃ詳しく書かれていてめちゃくちゃおもしろく、感動さえする話だったので血を吐きながら超意訳しました。これ多分"タチバナ"に関して世界で一番詳しい文章ですよ。

本文はこちら

How a Japanese medical student and local businessman made one of the most coveted records of all time

 

天才大学生4人組とそれに惚れ込んだパトロン、橘郁二郎の物語。

※訳間違いなど多々あると思いますので随時ご指摘願います。
※原文では途中何箇所かBBEのコンピレーションの宣伝箇所がありますがそこは割愛しております。
※All images from Vinyl Factory.

 

 

今では誰もが欲しがるレア盤となった1枚のレコードを、医大生と地方のドライブイン経営者はどのようにして作り上げたのか。

Title: How a Japanese medical student and local businessman made one of the most coveted records of all time 

 

相澤徹カルテットの"TACHIBANA (タチバナ)"というジャパニーズ・ジャズのトップ・レア・レコードは、このアルバムのタイトルにもなった橘郁二郎 (たちばないくじろう)という一人の男が投資し、彼のベースメントで録音させたアルバムである。そして彼はこのレコードを名刺代わりに配った。

Used as a business card by the man who funded the recording in his basement and after whom the album is named, Tohru Aizawa Quartet’s Tachibana is one of the rarest Japanese jazz records of all time. 

 

1975年3月30日。群馬県沼田市で成功していたドライブイン経営者である橘郁二郎(たちばな いくじろう)氏と手を組んだ4人のアマチュア・ミュージシャンは、レコーディングのために群馬にいた。それは彼らのファースト・アルバムであり、唯一のアルバムであり、本来ならば忘れ去られるはずのアルバムだった。しかしここ10年で色々なことがあり、そのレコードは「知られざるジャパニーズ・ジャズの世界」で最も崇拝され、求められるレコードの一つとなった。

On 30th March 1975, four young college students gathered in the presence of a wealthy local businessman, Ikujiroh Tachibana, in the town of Numata, Gunma Prefecture, about 90 miles north of Tokyo. The four amateur musicians were there to record their first and only album, an album that would remain forgotten for the next forty years. After labouring in obscurity for decades, the record has become one of the most revered and sought after artefacts in the esoteric world of Japanese modern jazz, emblematic of the fanatical culture and desire for perfection that pervades it.

 

しかし、なぜこのアルバムはそんなに特別なもので、和ジャズコレクターの財布を泣かせるトップ・レコードとなったのだろうか?

But what is the story of this album, why is it so special, and how has it become a central totem in the wallet-bashing world of Japanese jazz collectors?

 

それらを紐解くために1975年3月、群馬県沼田市の橘郁二郎氏のお屋敷にレッツゴーバック。橘氏は先祖代々続く立派な家系の生まれであり、橘一族は地元でも非常に権力があった。また郁二郎はその頃すでに赤谷ドライブインの経営で成功を収めていた。彼は自身が手がけたこのアルバムのジャケットに橘一族の家紋を大きく使った。

Let’s go back to March 1975 and the grand house of Ikujiroh Tachibana in Numata, Japan. Tachibana was a successful businessman and member of a prestigious family who could trace its lineage back to seventh century Japan. The Tachibana clan were, for several centuries, a powerful aristocratic family with close links to the imperial court, and the clan emblem or mon 紋 is used on the cover to the album.

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橘郁二郎は地元の権力者というだけでなく、ジャズの熱狂的ファンとしても知られていた。彼は頻繁に地元のジャズ・クラブやジャズ・バーに出入りし、ときには前橋や伊勢崎など近隣の街へも足を伸ばした。また、チャールズ・トリヴァーやマル・ウォルドンなど、アメリカのジャズ・ミュージシャンの来日を聞きつけては東京まで通った。そのようなフットワークのおかげで今回のテーマである相澤徹カルテットにも出会うこととなるのである。このバンドは1969年に森村恭一郎と森村哲也の兄弟がはじめたバンドであった。

Not only was Tachibana a respected and well-known local figure, he was also a big jazz fan. He would frequent local jazz clubs and bars and sometimes travel to nearby towns such as Maebashi and Isezaki – as well as Tokyo – to catch visiting American artists like trumpeter Charles Tolliver and pianist Mal Waldron, alongside home grown talent. One such band was the Tohru Aizawa Quartet, a group started in 1969 by two brothers, Kyochiro and Tetsuya Morimura.

 

恭一郎はサキソフォン・プレイヤーであり当時は音大生であったが、後に学校の先生となっている。一方、哲也はドラマーで当時は法学部生だった。森村兄弟は前橋で開催された医大生によるミュージック・フェスティバルに参加し、そこで初めて当時医大生であったピアニスト相澤徹の演奏を聴き、彼らより少し若い相澤徹の演奏に完全にやられてしまった。相澤は1950年長野生まれであるが、医大生として前橋で暮らしていた。ちなみに彼はその医大をトップの成績で卒業している。その類まれなる演奏技術に感銘を受けた森村兄弟はすぐに相澤徹をリーダーとするバンドを組む決意をし、哲也の法学部の友人であるベーシスト、渡辺好造を加えてカルテットを結成した。

Kychiro was a saxophonist and music student who later became a teacher, and Tetsuya was a drummer and law student. A few years younger than pianist Tohru Aizawa, they joined forces after hearing Aizawa perform at a music festival held in the medical school in Maebashi. (Aizawa, born in 1950, had moved there from Tokyo to study medicine. He would eventually graduate top of his class). Suitably impressed by Aizawa’s skills on the keys, the Morimura bothers decided to form a group and were joined by bass player Konzoh Watanabe, a fellow law student of Tetsuya Morimura.

 

彼らはローカル・スポットでギグを重ね、前橋にあるジャズ・スポット「木馬」(オーナーは根岸コウイチ*1氏)にてレジデントを務めた。そこでは小さいながらも着実にフォロワーを増やしていった。その木馬で彼らはローカル・ビジネスマン、またの名を群馬のジャズ狂、橘郁二郎と出会うのである。橘は彼らにレコードを作ることをすすめ、それに関わる資金はすべて自分が負担すると申し出た。橘はそのLPを売り物ではなく、彼自身とそしてバンドを宣伝するために配布する名刺にしようと考えていたのである。

They began gigging at local jazz spots, gaining something of a residency at Mokuba, a jazz spot in Maebashi owned by Kohichi Negishi. It was here that the group built a small but loyal following, among them local businessman and jazz fanatic, Ikujiroh Tachibana. He suggested that they make a record and he would finance it. Moreover, he would use the finished LP as a business card to promote himself and the band.

 

出来上がったこのレコードを誰が受け取ったのかは記録されていないが、それが広く知れ渡らなかったことは疑いようもなかった。相澤本人曰く、おそらく150-200枚のみプレスされたと思うが正確なところは誰もわからないとのことである。さらにそのうちのいくらかは受け取られた後、一度もプレイされず捨てられたのだろうとのことである。信じられないことではあるが、配られたこの"名刺"はまったく理解されなかったのである。

Quite what the recipients made of this was not recorded, but a few quizzical looks were no doubt shared. According to Aizawa maybe as few as 150-200 copies were manufactured, although nobody really knows, and it’s probably safe to assume several copies were discarded straight after being received. Unsurprisingly, using an LP as a business card didn’t catch on.

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このオリジナル・アルバムのライナー・ノーツに相澤が手書きでこのグループのモチベーションについて書いている。

In the original album sleeve notes, reference is made to a handwritten note from Aizawa explaining the motivation for the group:

 

「私たちは自分たちが作りたい音楽を作りました。私たちは音楽というものはそれを聴く人によって形を変えるということに気づきました。それを聴いて良さが分かる人もいれば、ただのノイズにしか聴こえない人もいるでしょう。まるでごちゃごちゃに積み上がった大学ノートのように。私たちはこれが万人受けするとは思っていません。しかしこれは自分たちのために作ることを決めました。」

“We just created music we wanted to create. We are aware that music takes a different shape dependent on the ear of the listener. There are people who can appreciate it and others for whom it’s just noise – just a load of notes clumped together. We know it’s not to everyone’s taste but decided to push on and create for it for ourselves.”

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アルバムはドラマーの森村哲也が作曲した"Philosopher's Stone"で幕を開けます。10代*2のアマチュア・プレイヤーがこれほど完成されたインプレッシブな楽曲を作曲し、さらに演奏しているということは、このバンドが才能にあふれている証です。森村哲也の兄弟であるサキソフォにスト、森村恭一郎はこのセッションのレコーディングと影響について次のように語ります。

The album opens with ‘Philosopher’s Stone’ written by drummer Tetsuya Morimura. For a teenage amateur player to compose and perform such an accomplished and impressive piece is a testament to the talent that the band contained. Testuya’s saxophonist brother Kiyoshiro describes the recording and the influences that went into the session:

 

「橘さんの群馬のホールでこのアルバムをレコーディングしたことは本当にいい記念になりました。レコーディングはトリオ ・レーベル (ケンウッド)のエンジニアによって行われました。そこにはスタインウェイのフルコンサートのグランドピアノが置かれていて、橘さんはズート・シムズ北村英治などを招いてコンサートを開催していました。そのホールはレコーディング・スタジオではないので、エンジニアはバランスなど非常に苦労していました。このホールでのレコーディングはそこで行ったどのライブ・ショウよりも楽しかったです。私はリテイク(録り直し)をした記憶がありませんので、楽曲の多くはワンテイクで録音したとおもいます。アルバムは売り物ではなく、橘さんが名刺として配っていたと思います。私はジョン・コルトレーン渡辺貞夫マイルス・デイヴィスウェイン・ショーターなどを好んでいました。哲也はトニー・ウィリアムスエルヴィン・ジョーンズを好んで聴いていました。」

“We thought it would be a nice memento so we went to Mr. Tachibana’s hall to record the album. It was recorded by someone from Trio Kenwood Records. At this hall, there was a Steinway full concert grand piano, and Mr. Tachibana invited famous musicians such as Zoot Sims, Eiji Kitamura and others to do concerts there. It was not a recording studio so they had difficulty getting the balance right. Just like any other live show that we regularly did, we had fun doing it. I don’t remember doing re-takes, so I think it was mostly done in one take. It was not commercially sold. I think it was given out by Mr. Tachibana in place of a business card. I listened to a lot of John Coltrane, Sadao Watanabe, Miles Davis and Wayne Shorter. My brother, Tetsuya, listened to a lot of Tony Williams and Elvin Jones.”

Tohru Aizawa Quartet - Philosopher's Stone - YouTube

 

そして曲はサキソフォニスト森村恭一郎が作曲した叙情的な素晴らしい楽曲"Sacrament"へと続く。彼はファラオ・サンダースや後期のジョン・コルトレーンに傾倒していた。長いイントロが明けるとバンドは一気にディープなサウンドへと変化していく。恭一郎のサキソフォンが火山のようなリズム・セクションの上で灼熱のブロウを聴かせる。次へ続く相澤自身が作曲した"Dead Letter"は彼曰く「自分の精神から湧き出してきた」という。

‘Philosopher’s Stone’ is followed by ‘Sacrament’, an epic modal composition by saxophonist Kiyochiro Morimura that fans of Pharaoh Sanders and late-era John Coltrane will appreciate. After an extended intro the band drop into a heavy, churning groove, Morimura’s saxophone scorching above the volcanic rhythm section. Aizawa’s own composition ‘Dead Letter’ is featured on the J-Jazz compilation. He says the track “just came out naturally, a spiritual outflow of myself.” 

Tohru Aizawa Quartet - Sacrament - YouTube

 

彼の名は多くの組織で見かけるが、これは彼が唯一吹き込んだ彼が作った楽曲となる。これまでのところ、この"Death Letter"以外では、彼のバンドが40年前に実際に演奏しているのを生で見た事がある幸運な人だけである。"Death Letter"の演奏は素晴らしく、勢いがありリズムとディープさ。マッコイ・タイナーの面影を感じるが、相澤自身の影響はビル・エヴァンスセロニアス・モンクチック・コリアから菊地雅章まで幅広い。

Although he has many other compositions to his name, this is the only one ever recorded. Thus far, all but ‘Dead Letter’ remain unheard outside of the lucky few who saw the band perform 40 years agoas. ‘Dead Letter’ is a performance of great bravura, a propulsive attack of rhythmic power and textural depth, redolent of McCoy Tyner at his most impactful. Aizawa’s own influences range from Bill Evans, Thelonious Monk and Chick Corea (Corea’s ‘La Fiesta’ is one of the two covers on the album) to Japanese jazz piano master, the late Masabumi Kikuchi.

Tohru Aizawa Quartet - Dead Letter - YouTube

 

そしてアルバムは"Samba De Orfeu (オルフェのサンバ)"の火傷するほどの熱量でラストを迎える。それは彼らの才能を表すかのような目覚ましいスピード感で突き進む。彼らの才能とポテンシャルを考えると、たった1枚のレコードを残しただけという事実が本当に信じられない。

The album finishes with a furious burn through the classic ‘Samba de Orfeu’, at such a speed it’s astonishing the band hold it together. An example of nascent talent, it’s hard not to ponder on the potential in a band that left just a single physical manifestation of their work.

Tohru Aizawa Quartet - Samba De Orfeu - YouTube

 

アルバムのアートワークは前述の前橋「木馬」のオーナー根岸氏が手がけている。このバンドのスポンサーでもあり、またお父さんのような存在でもあった橘郁二郎がグラスを持ってもたれかかっているポートレートが見開きの中に掲載されている。そこには橘による礼儀正しい文章での感謝の言葉と、バンドがそのレコードを磨き上げるために勉学の合間にどれほどリハーサルを行い、演奏し合ったかを認める文章が添えられている。さらに彼は「彼らは聴くたびに良くなっていき、常に原石を磨き続けていた」と続ける。しかし、相澤徹カルテットのレコードはこれ以上作られることはなかった。当時このレコードは橘氏の名刺として作られ、相澤と森村はハードワークでジャズに時間を割くことができなった。

The artwork on the album was designed by Kohichi Negishi, owner of the Mokuba jazz spot in Maebashi where the band often played. A portrait of the band’s sponsor, the avuncular Tachibana himself, leaning with drink in hand, graces the inside of the gatefold sleeve. It is accompanied by a typically polite ‘thank you’ and a greeting in which he remarks at “how polished the record is for a band that rehearsed and played in between their studies”. He goes on to say that “they get better each time he hears them and is always moved by their performances”. Tantalisingly, he also states he “wants to create more records and find hidden gems” but no more recordings of the Tohru Aizawa Quartet were ever made. By the time the record was issued as Tachibana’s business card, Aizawa and the elder Morimura were hard at work with no time to devote to their music. 

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相澤の場合、卒業後は彼の親族が経営する長野県松本市の病院に勤務し、今もそこで糖尿病のスペシャリストとして務めている。彼は今もたまに機会があればピアノを弾いているが、もう一度レコーディングするつもりはないという。他のメンバーは相澤が抜けた後数年ではあるが、バンドを続けたようである。森村恭一郎は吉田憲司のクインテットなどでも演奏し、森村哲也は 渡辺貞夫をフィーチャーした「赤い鳥コンサート」というソロアルバムをリリースしている*3。しかしこれらの活動のどれをとっても、あのアルバム"TACHIBANA"の強烈さとミステリアスに対抗できるものではなかった。

橘さんと相澤徹カルテットのみなさんへ。アリガトウゴザイマス。

In the case of Tohru Aizawa himself, he went on to work as a doctor at his family hospital in Matsumoto, Nagano Prefecture, where he continues to work today specialising in diabetes. He still plays piano occasionally but never again recorded. The other members did continue in music to some degree, albeit for only a few more years. Kyoishiroh Morimura played with the groups Sing Out and the Kenji Yoshida Quintet; sibling Testuya released a solo live recording album called Akai Tori Concert (Red Bird Concert) which featured Japanese jazz icon Sadao Watanabe as a guest. But none of their projects ever matched the intensity or mystery of Tachibana.
To Mr. Tachibana and the Tohru Aizawa Quartet, arigatou gozaimasu.

 

参考

*1:名の漢字が不明です

*2:原文ではteenageの記述がありますが、相澤徹は1950年生まれで、レコーディングは1975年なので10代ではないと思われます。他のメンバーは彼よりもみな年上。

*3:原文では哲也のソロアルバムと書かれているが実際は違うと思います。彼が参加したコンサートの実況録音盤。

Bobby Wright - Blood Of An American (MEL009)

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Bobby Wright. Blood Of An American - YouTube

Floating Points主宰のレーベルMelodies Internationalからの最新作。このレーベルは1番から無条件で買い続けているのですが、今回は特に好み。黒人が歌うソウルフルなフォークです。めちゃくちゃ良いです。これは知らなかったな〜。

Floating Pointsの正体をこの記事で知ったとき本当に彼のことが好きになりました。こういう大人になりたいしいつまでも夢を追いかけていたいものです。腐りたくない。

※ちなみに上のYouTubeのコメント欄で「これオレの親父だ」というコメントが有り、即座に「生きてる?コンタクト取りたいんだけど!!」というやり取りが繰り広げられていてなかなかおもしろいです。ちなみにこの息子、ヒップホップをやっているようでかなりサグい雰囲気があります。

 

以下、インフォを超簡単に訳。

40年以上も忘れ去られたBobby Wright (現在はAbu Talibという名)の"Blood Of American"はポリティカルな要素含み、現在でも大きな意味を持ち輝いています。

 

60-70年代はポピュラーなカルチャーと急進的な政治がユニークにブレンドされた異例の時代でした。

 

ご存知、Sly StoneやMarvin GayeGil Scott-Heronが戦争やアメリカへの不満を表現するために芸術 (音楽)を使い、ミュージシャンではないがモハメド・アリはボクシングリングの上で同じことを表現し、ベトナム戦争への抵抗のアイコンとなりました。

 

その一方で、アブはニューヨークのクイーンズで建設業や運転手など幾つかの仕事をしていましたが、家族を支えるために夜はクラブでバンドメンバーとともに100ドルのために演奏しました。

 

しかし国際紛争や暴力に反発する彼の歌は人々には届きませんでした。そんな中でも彼は音楽こそ世界とコミュニケーションを取るためには最も素晴らしい方法であると考え、また次の世代へポジティブなメッセージを広げなければならないと信じていました。

 

バンドメンバーの1人がベトナム戦争で殺害され、もう一人が徴兵となったあと、1974年にアブはギターを持って、唯一残ったバンドメンバーであるベーシストと2人でレコーディングを行いました。ギターとベース、そして感情むき出しの震える歌声でこの"Blood Of An American"は録音され、シングルレコードは自主制作されました。

 

この歌は、シンプルさの中にある美しさと心の底から沸き起こる感情表現を私たちに思い出させてくれます。今回のリイシューはデジタルと7インチの2種類のフォーマットでリリースします。また、Abu Talibと社会学者のPaul Rekret、その他の大勢の言葉でできた16ページのZine (通称Melozine)もつきます。

 

参考

 

Enno Velthuys (Holland)

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インターネットを徘徊していたらみつけたオランダのアンビエント系アーティスト。なかなかのインパクトがあったのでご紹介します。何か情報ありましたらお寄せください。

Enno Velthuys - Different Places [Full Album] - YouTube

最初にたまたま辿り着いたのが上記アルバムですごいいいなと思いました。すぐにリリースの情報を探ってオリジナルレコードの有無やリイシューの有無などを調べますが、この方80年代にアルバムを6枚かそれ以上出していますが、なんと徹底してすべてのフォーマットがカセットオンリーです。ここまでカセットのみのアーティストは他にいないかもしれません。アーティスト情報について調べてみてもオランダのアーティストということくらいしかわからず、とにかくこのテの音楽ファンを惹きつけること請け合いです。

FBのページがあり、おそらく本人かその周辺が衝動的にスタートさせてものの放置状態。とにかく内容が素晴らしいので今後の各国のアンビエント警察(レーベル)の動向に注目いたします。リイシューが決まれば何かしら本人の情報もあきらかになることでしょう。

こちらの曲も非常に素晴らしいです。

Enno Velthuys - Uplands - YouTube

 

参考

小久保隆 - 新・呼吸アルバム (’87)

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Takashi Kokubo – Get At The Wave (Sanyo – 20481) - YouTube

 ジャケットで拒否反応を示してはいけません。個人的には国産バレアリックサウンドのトップクラスの良盤だとおもいます。サンヨーの販促用レコードなので当然CD化もされていません。ちょっと高いですが。このアルバム、何枚くらい作られたものなんでしょう。

ピクチャーディスクになっていて、見た目はとにかく「あの頃の日本」っぽさがすごいです。ちなみにリリースの87年は私が生まれた年です。このジャケットとは裏腹に内容は本当に素晴らしくてフィールドレコーディングを取り入れたサウンドスケープという感じ。演奏が素晴らしいのはもちろんですが、一音一音へのコダワリみたいなものが強く感じられて、ここまでのアルバムは日本では他に存在しないのではと思えるほどです。

小久保隆氏についてですが、活動初期からこういった類の演奏よりもサウンドに重きを置いた音楽を専門に活動しているようで、活動初期は越部信義 (2014年没)とともにアニメを中心とした映像作品への楽曲提供を行っていたようです。とくにレコードコレクターの間では『少年ケニヤ』が有名でしょうか。基本的にはソロ名義でのリリースは当時はなく、それほど自分が前に出ることに興味はなかったのかなと思います。

87年の本作リリースの後、90年代は沈黙し2000年に入ってからサウンドデザインやヴィジュアルデザインを行う会社STUDIO IONを設立。そこから自身のベストアルバムや数々のCDをリリースしています (もう少しレコードコレクターやアンビエントファンに響くジャケットデザインであれば....)。

昨今は日常で使われる効果音やサウンドのデザイナーとして活躍されており、フィールドレコーディングにも重きをおいているようで、自身が開発した「サイバーフォニック」という3Dサウンドシステムで各地のサウンドを採取し、発表しているようです。

この台湾タロコ族のフィールドレコーディングなどはすばらしいお仕事だとおもいます。

台湾タロコ族 東冬侯温「歓迎の歌」 - YouTube

 

追記

ご本人と少しお話できました。誤字がすごくてすみません。

https://twitter.com/quojama/status/963037402615828480

 

参考